作者不詳 #2「掲示/啓示」
このたびCAGE GALLERYは、8月4日(土)から美術家・原田裕規による企画シリーズ「作者不詳 #2『掲示/啓示』」を開催致します。
原田裕規は、1989年山口県生まれ。社会の中で取るに足らないとされている「にもかかわらず」広く認知されているモチーフを取り上げ、議論喚起型の問題を提起する数々のプロジェクトで知られています。原田のプロジェクトは、その活動から「批評のアーカイブ」をイメージさせます。それはモチーフがあらかじめ持っている批評性だけでなく、原田が等しく作品として位置付けるいくつかの形態(絵画、写真、インスタレーション、キュレーション、テキスト、書籍)の連鎖/反復によって、プロジェクトが内省的に拡張されているからです。原田の制作において「批評」は、蓄積されながら時に姿を変えて引き出されるマテリアルと言えるでしょう。
本企画「作者不詳 #2『掲示/啓示』」は、昨年開催された「作者不詳 #1」に続くCAGE GALLERYでは二度目の展示です。シリーズとして展開される本展では、新たに「掲示/啓示」というサブタイトルが与えられています。原田はここで、行為者が特定でき得る「掲示」と、何処からともなくもたらされる「啓示」を同一視しているかのようです。一見ありふれた、言葉遊びとも思える「掲示」と「啓示」の併置は、しかしながら「作者不詳」の写真が二枚併置された本展に添えられることで、作者の確かさ/不確かさにフォーカスするためのトリガーとなるでしょう。
原田による企画展「作者不詳」シリーズ第二弾を、是非この機会にご覧ください。
展示概要
作者不詳 #2「掲示/啓示」
企画 原田裕規
会期: 2018年8月4日(土)- 9月30日(日)
点灯時間: 11:00 – 20:00
会場: CAGE GALLERY
*ギャラリー向かいのHender Scheme「スキマ」内にハンドアウトを設置
シリーズ「作者不詳」
作者不詳 #1(会期: 2017年8月3日(木)- 10月1日(日))
作者不詳 #2「掲示/啓示」(会期: 2018年8月4日(土)- 9月30日(日))
作者不詳 #3 ブルーシート(会期: 2019年8月30日(金)- 11月5日(火))
原田裕規 Yuki Harada
1989 年 山口県生まれ
2013 年 武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科卒業
2016 年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了
2017 年 文化庁新進芸術家海外研修制度研修員としてニュージャージーに滞在
主な展覧会
個展「心霊写真/マツド」山下ビル(2018年)
個展「心霊写真/ニュージャージー」Kanzan Gallery(2018年)
企画「心霊写真展」22:00画廊(2012 年)
企画「ラッセン展」CASHI(2012年)
主な著作
編著『ラッセンとは何だったのか?──消費とアートを越えた「先」』フィルムアート社(2013年)
原田裕規インタビュー(聞き手=CAGE GALLERY)
CAGE GALLERY(以下CG): 「作者不詳」というテーマについて教えてください。
原田裕規(以下YH): 優れた作品や、作品ではないけれど人が進んで「鑑賞」をしたくなるような対象が持つ特性として、「作者不詳性」とでも言いたくなるような感覚を覚えることがありました。具体的には、ジョン・コンスタブルや、クリスチャン・ラッセンや、イコン画などですね。そこで一度この問題に正面から向き合ってみたいと考え、2017年にこの企画シリーズを始めました。
最近は意識して写真展示の方法論を増やしている最中なんですが、写真以外にもこのテーマは拡張していけるので、少しずつ使える技法を増やしていきながら「作者不詳」という概念の射程を拡げていきたいと思っています。
ちなみにその幅の広さでいうと、美術史というデータベースが「作者 author」という単位を基礎にして記述されているのに対して、かたや「不詳の作者 unknown」という非単位を基礎として記述されていく領野が茫漠と広がっているのではないかというようなイメージです。
CG: 今回CAGE GALLERYで開催される本展について教えてください。
YH: 今回は展覧会のサブタイトルに「掲示/啓示」と付けました。これはもちろん、CAGE GALLERYの「掲示」から引用しているのですが、それに対して「啓示」という言葉は「作者不詳」を別のニュアンスで言い換えたものです。たとえば、どのような取るに足らない物でも「掲示」してしまうことによって鑑賞の可能性が生まれ、出処不詳のメッセージ(=啓示)を受け取るといったことが起こりうる。このように、意外に掲示と啓示という2つの概念が近いところにあるということと、また展示技法の拡張という意味も込めて、今回はとりわけ「掲示」いう概念にスポットを当ててみました。
CG: 作家自身が作品や展示を補足する行為を、あなたはアウトプットの一環と捉えますか? まさにこのインタビューがそうです。
YH: もちろん必要な作業ですが、その言葉が作家自身によって発せられたものである場合、あまり真っ直ぐは受け取られないでしょうね。それに対してぼくが文章を書いていて一番やりやすく感じるのは、展覧会のステートメントです。
たぶん、2012年に企画したラッセン展のステートメントが初めてちゃんと文章を発表した機会だったかと思うんですが、共同企画だったこともあってその際は匿名的な文体で書いたんですね。するとその作業が意外に楽しかったんです。というのも、匿名的な文体をしかるべき状況で発表した方が、そこに書いてある内容を真っ直ぐ受け取られることもあるんだなと思ったからです。
このことは文章の「実効」に大きく影響することで、たとえば街中にあるインフォメーションなどが顕著な例ですね。発信者と言葉と対象の持つ関係がある特殊な状態にあるわけですが、このことと展覧会ステートメントを匿名的な文体で出すということは、その実効という意味で言うと近いものがあるような気がしています。
CG: 対象を制作することと発見することは、あなたにとって異なる問題系ですか?
YH: 両者の最も大きな違いは、「制作」には時間が伴うのに対して「発見」には時間が伴わないということです。そしてしばしば、時間を伴う行為(パフォーマンス)よりも、時間を伴わない「着想」や「閃き」にこそ作者性 authorshipが委ねられてきました。
そういう意味で、両者は異なる問題系にあるのですが、ぼく自身は「制作」と「発見」を同一の主体が行えるということが強みになると思っています。これは単に「キュレーションができるアーティスト(あるいはその逆)」みたいな表面的な話ではなく、むしろ表現そのものについて考えるようなことです。
たとえ話でもなんでもなく、ぼくにとって画家とはそういう主体なんです。つまり時間を伴わない「着想」と時間を伴う「制作」をともに行う主体であるということ。そのモデルと同じように、ぼくもこの2つの問題系を単一の主体で行うということは、あるひとつの「画」を描くような作業として実践しているところがあります。社会的に絵を描くといった作業でしょうか。
*本インタビューは、ギャラリー発行のハンドアウト内に収録されたものです。